活動報告

私たち東京武蔵野中央ロータリークラブは、さまざまな職業のメンバーが
その経験と知識を生かして社会奉仕活動や人道的活動に取り組んでいます。

「メンバーズデー(3月)」(2025/3/6)

その他の活動

メンバーズデー(3月)につき、”2月のお祝い”と、”ロータリーの友読み合わせ”、”会員スピーチ”をおこないました。

*3月のお祝い(会員誕生日、ご夫人誕生日、ご結婚記念日、その他のお祝い)と2月の皆出席賞のお祝い

*ロータリーの友3月号の読み合わせと報告

*P7 3月は水と衛生月間

災害時のトイレ事情と影響~水が止まる。その時にどうなる/水洗トイレを当たり前に使っている私達ですが、大災害時にトイレが使えなくなると健康や衛生、心理的にも大きな影響を及ぼします。

P14 次年度のRI会長ってどんな人?2025-26年度RI会長マリオ・セザール・マルティンス・デ・カマルゴ氏について紹介されています。

P33 ロータリーアットワーク/お馬さんたちとの時間を安全に楽しんでね 東京東江戸川RCの活動が紹介されています。P61 財産と命を守る防犯マニュアル/進化する特殊詐欺犯罪の手口 犯罪意識の高い人と低い人、新しい犯罪手口を知っている人と知らない人、そこに情報格差が生まれ、被害者が増えているというのが現状です。特殊詐欺から身を守るには特徴、手口を知ることからです。

*週末にRYLAセミナー参加の為沖縄に行ってきましたのでお土産をお配りしています。多くの皆様にご協力いただき、無事に終えることができましたありがとうございました。 *昨日は会長エレクトとしてPETSに参加しました、次年度の方針や危機管理など盛りだくさんの内容でした、改めて身の引き締まる思いがいたしました。 

*会員スピーチ/近藤会員(1993年1月入会)

「吉祥寺新田開発よもやま話」

武蔵野市の基となった江戸期の4つの村(吉祥寺・西窪・関前・境)のうち、吉祥寺村と西窪(西久保)村は江戸の町に深いゆかりがあります。

入間台地、荒川、多摩川、東京湾に囲まれた部分を武蔵野台地といいます。元禄の頃、当武蔵野市周辺は関東ローム層で水源も深く、木のない萱だけの荒れ地でした。肥沃な畑に向く土地で早くから開けていたのは埼玉の松山周辺でした。

 江戸幕府も安定してきた、4代徳川家継のころ、その創立で多くの負債を抱えるようになり、加えて、明暦の大火が2年続き(明暦3年‐4年)幕府の財政は更に苦しくなり、財政の年貢(米石高)を増やさなければならず新田開発が必要になりました。当時、幕閣にいた2代将軍家忠の子、保科正之が福祉対策、災害救済対策、都市整備等の大改革を実行。その一環が「新田開発」で、吉祥寺の第一次の新田開発は寛文時代1664年頃でした。第2次の新田開発は8代将軍徳川吉宗によりたるんだ幕府を立て直す目的で1723年に財政改革(新田開発を含む)、街火消し、目安箱、小石川療養所等の改革を行い、それを支え実行したのが大岡忠相です。

*明暦の大火と移住

明暦3年(1657年)本郷の本妙寺から出火した火災により江戸は2/3を焼失、10万人といわれる死者がでました。翌明暦4年に再度大火があり今の水道橋の北側にあった吉祥寺も焼失し、寺は駒込に移されました。これらの大火を契機に幕府は大規模な都市計画を実施し大名屋敷や寺院を中心部から郊外・武蔵野の地に移転することにしました。江戸市内に居住した町人や農民も立ち退きを命ぜられ、五日市通沿いへ移り住み、吉祥寺村はその時に開発されました。西窪村や連雀村も同じ理由で江戸から武蔵野へ新天地を求めた人々によって開村されたものです。

*検地と地割

万治2年(1659年)の開墾から5年後の寛文4年(1664年)7月に、幕府代官の野村彦太夫の手代等により吉祥寺村をはじめ西窪村や連雀村に検地が行われました。検地帳は道路(現在の五日市街道)を境にして、南側と北側とでそれぞれ作られました。南側の検地案内人は、新蔵・松庵・加右衛門の3人で、検地帳に登録されている百姓25人、寺3軒(月窓寺、光専寺、蓮乗寺)。北側の案内人は、十郎左衛門・作左衛門・太郎兵衛の3人で、登録百姓は35人、宮地と寺屋敷とは、まだ神社も寺も決まっていなかったようです。

開発された本宿(屋敷)と野田(耕地)とは、道路を挟んで両側に短冊形に分けられ、ほとんど均等に分配されました。標準的な家は、道路に面する部分が20間で、奥行8間分が屋敷地、次の76間が上畑、次の125間が中畑、次の111間が下畑、次の314間が下々畑でえあった。面積にして5町歩、高にすると12石前後となります。地元では、この1短冊を「ひと幟」と称しています。こうして整然とした地割を負った吉祥寺村が誕生し、この地割制度は西窪村でも関前村でも同様で ありました。