「市文化財に指定された『武蔵野八景の碑』~その由来と時代背景~」(2020/2/6)
秋本 光雄会員
(1)「武蔵野八景」の碑とは・・・・
*境駅開設10周年を祝う記念碑
*村社杵築大社の境内に在り
明治32年5月上旬建立
*表面は当時の境村の情景を
八景の漢詩に託した碑文
*裏面には全村挙げての祝賀の 模様と賛同者200名の姓名が
*記念碑建設の計画者は・・・
碑文の作並びに書(移住された知識人) 南 尚
企画提案(地元有力者で村の助役) 秋本 喜七
協力者(富士山信仰の大観進元) 髙橋 定五郎
《添付資料参照》
(2)南 尚氏とは・・・・
*南氏の曾孫にあたる大工
原均一さん(境南町在住)の話では・・・
明治22年甲武鉄道(現在の中央線)が開通して間もない同25年当時純農村であった境村への最初の移住者でしょうか 尚氏は 元農商務省の役人でしたが秋本さんの紹介でこの境の地を終の棲家と定め屋敷を構えたと伝えられています
*南尚氏の略歴
大分県宇佐市出身 本名 一郎平(1836~1919)
南家の事跡は宇佐神宮境内の顕彰碑に・・・
明治9年松方正義(当時は農商務省の局長職)に招聘され、土木技術 特に疎水隧道掘削の専門家として活躍、明治19年退官後も土木工事会社を起業しトンネルの多い各地の鉄道工事に参画、その果実を以て境駅近くに敷地5000坪余の邸宅を構え花卉を友とし漢詩の作詞や書に想いを寄せ作庭にも励むという悠々自適の余生を送られた
*南尚氏の石碑にういて深更すると・・・
境南町・観音院の墓所にある「秋本倉蔵顕彰碑」~明治30年11月建立
西久保・源正寺に在る「井野家の参師の碑」~明治31年11月建立
そしてこの「武蔵野八景の碑」~明治32年5月建立
と続けて南尚氏に成る石碑が建立されているが、この時期の武蔵野村の村長が井野久太郎(第3代村長)助役は秋本喜七(第4代村長)という関係にあり、両名が揃って先祖の顕彰碑の建立を考え、その流れの中で「武蔵野八景の碑」建立が企画されたのではなかろうか?
いずれにしても碩学の漢学者・南尚氏なくしてこれらの史実を刻む「石碑」が無かったことを考えると感慨無量のものがある (了)