「会員卓話」中里崇亮会員(2021/7/29)
武蔵野の空襲と戦争遺物
中島飛行機株式会社は、太平洋戦争中(1941-45)(当時は日本では大東亜戦争と呼んでいた)、三菱重工業と並ぶ日本航空機生産のトップメーカーで、武蔵製作所はその零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を初め陸海軍の航空発動機(エンジン)工場として、従業員、全国からの徴用工員、男女動員学徒を加え5万人が昼夜兼行で生産に励み、日本の全生産台数の30パーセント近くを生産する国内第一の軍需工場であった。ここで造られた発動機は田無町谷戸にあった中島航空金属田無製造所に軽便鉄道で運ばれ、試運転用プロペラを取り付けてテストを行い、群馬県太田製作所で機体に搭載されて、飛行機を完成させた。一時は試運転の音が盛んに聞こえた。八幡町在住の岡本さんは当時の試運転用プロペラを戦後も保存していましたが、平成21年1月に亡くなり当寺に納めました。
昭和13年(1938) 5月、武蔵野製作所(陸軍)が西窪(現在の緑町2丁目)に完成。昭和16年(1941)11月、多摩製作所(海軍)が関前(現在の八幡町2丁目)に、中島病院が現在の八幡町4丁目にできました。用地の取得は西窪は借地、関前は坪11円で買収され、そのうち1円が離作料ということです。
延命寺では約1万坪が買収された。武蔵野製作所と多摩製作所は昭和18年に合併して武蔵製作所となり、昭和20隼(1945)国営化され第一軍需工廠第十一製造所と変わった。
昭和19年(1944)
7月6日 サイパン・グアム島が陥落すると、米軍による最大攻撃目標となり、11月24日、 B 2 9による空襲を受け、以来延べ9回の爆弾と焼夷弾などの爆撃により、爆弾500発が命中、工場内死者220名、負傷者500名以上、ほか付近下請工場と民家が破壊され住民多数が死傷しました。付近住民の被害、死傷者数は不明のままです。もっと空襲体験を掘り起こし記録と戦争遺物を後世に伝えていかなければなりません。
私の小学二年から三年生にかけての一年たらずの空襲体験ですが、非常に長く感じ、絶対忘れることができない恐怖と悲惨の体験でした。
この記録は私自身の子供の頃の空襲体験に合わせ、父母を始め多くの方々から聞いた話と、都民の空襲体験記録集「東京大空襲・戦災誌」などを参照にして作ったものです。
中島のサイレンが「ウ————」と鳴り響き、ラジオが「ガーガーガー」となり、「東部軍管区情報(関東甲信地区)、警戒警報発令、鹿島灘上空より敵機、帝都目指して侵入中」、空襲う警報のサイレンが「ウーウ、ウーウ、ウーウ、ウーウ」とけたたましく響き渡り、やがて、「ダン、ダン、パン、パン、ガラガラヒュー、ドカーンドカーン、バリバリ」とやってきます。防空頭巾をかぶり、玉川上水近くの林に逃げ込み、警戒警報解除のサイレンが「ウーーーーーーー」となると、「あーあ助かった」と思う毎日でした。
昭和19年(1944)11月1日、防空壕に入れと言われたが、私達子供は怖さ知らずに庫裏(寺の住まいのこと)の中庭で遊んでいました。西から東へ豆つぶぐらいの飛行機を初めて見て大騒ぎしたことを覚えています。ラルフ・D・・スチークレイ大尉の操縦するB29偵察機(F13と呼ばれた)一機が、南から北へ高度1万メートル上空より撮影した航空写真が、中島武蔵製作所の爆撃の「道しるべ」となりました。5日と7日にもB29少数機偵察飛行が行われたといわれます。
11月24日(1回目)
昼過ぎ、B29による初空襲、111機が出撃、80機(米軍資料88機)が爆撃に参加し、高性能爆弾41.8トン、普通爆撃、焼夷弾など250トンが集中的に投下された。武蔵野町の中島飛行機工場を集中的爆撃、一部の小編隊は荏原、品川、杉並区や東京湾を爆撃した。この空襲で、死者50名、被害家屋332戸、戦災者1352名(警視庁調べ)。爆弾が投下されてから空襲警報が鳴らされた。中島飛行機工場だけで、工員ら78人が爆死。武蔵野町役場近くにも爆弾、その後、役場は三小に移転。
24日のお昼頃警戒警報がなり、武蔵境の第二国民学校から、集団下校で仲通り、今の五中の北側あたりを歩いているとき、B29による始めての空襲に出会いました。ガラガラ、ヒュウ、ドド、ドカーン、ドカーンと大音響とともに、中島の西側あたりから地柱が立ち、煙が立ち上がったのが目撃されました。聞いたこともない地響きや見たこともない光景が目の当たりに起こりびっくりぎょうてん右往左往していました。道ふちから中村さんのおばあさんが「こっち、こっち、早くこっちにおいで」と呼ぶ声に、農家の生垣に潜り込みました。隣の八幡町1-1-2 (45番地)関前八幡神社社務所の前にも爆弾が落ちすぐ目前で爆発大きなサワラの木が根こそぎになった。警防団は警戒警報が出ると社務所前に集まり警備をしていたが、ドカーン、ドカーンとすごい音゛がしたので、社務所の裏うらに逃げていき、怪我人はなかった。団長は中里亮融、副は井口彦作氏。近くの国民学校高等科にも爆弾が落ち職員室,応接間50坪が壊れ、大きなすり鉢状の穴があきました。
27日、12時ごろB29 46機 上空が厚い雲に覆われていたため渋谷,城東区北砂町を冒爆した。
29日夜半から30日午前2時半。B29天候不良ため爆撃失敗、都内空襲。
12月3日(2回目)
午後1時50分、B 2 9 75機、中島、吉祥寺、保谷、田無、小金井、練馬、杉並を爆撃、死傷者424名を出しました。
関前3丁目(関前566) 桜井さんの二家族10人が防空壕に入っていて爆弾が直撃、死体がばらばらになった。桜井三郎(37)・スク(27)・マサ子(6)・フミ子(3)・昭次(1)。桜井トヨ(76)・タツ(54)・富美雄(18)・好子(13)・幸雄(10L中島工場内で伊藤武雄(30)が爆死。学徒動員の都立五商生徒10人爆死。武蔵野女子学院の校庭に6発の爆弾が落ち中島工場から逃げ帰った学徒動員中の生徒4人が爆死。境浄水場の西の囲い土手に爆弾が落ちて、百メートル位離れた小林祐光(昭和3年生)さんの二階の部屋の布団を敷いた枕の上に、屋根天井を突き抜けた見地石が
突き刺さっていた。小林さんは昭和飛行機へ夜勤の学徒動員のため出かけていたので助かった。浄水場の官舎(関前1184)に住む山田場長さんは防空壕に入っていて生き埋めになり、朝方気がつき掘り出されて助かった。この付近には20年4月2日にも爆弾が落ちたといっていました。
西久保の利根川さんと榎本さんの家の間に爆弾が落ちた。利根川さんのおじいさんが土に埋まったが土を跳ね除けて立ち上がり助かった。負傷した榎本リン(81)一週間後の19年12月8日に死亡。一家全滅が各所で起きたので、それ以来、家族そろって防空壕に入ってはいけないと言われ隣の防空壕に行かされ、さみしい思いをしました。警戒警報が鳴ると防空頭巾をかぶって、夜中でも飛び起きて、玉川上水ふちまで駆け足で避難をした。空襲がひどいときはさらに小金井方面へ逃げていくのが日課になった。中島工場の南側に面するすぐ隣の畑では警戒警報が鳴るたびにコールタールが燃やされ黒煙が立ち上がっていました。*12月6日、10日、11日、12日、13日、14日、15日、20日、21日、22日、25日敵機来襲。
12月27日(3回目)
12時ごろB29 50機 中島爆弾攻撃死傷者156人、被害家屋124戸 戦災者578名、中島病院壊滅。28日、29日、30日、31日敵機来襲。
昭和20年(1945)1月1日午前0時5分、5日未明と夜、6日早朝、7日一機偵察。
1月9日(4回目)
午後2時ごろ B29、 48機 視界が悪く強風のため中島工場にはほとんど被害はなかったが6人が死亡した。麹町、杉並、練馬空襲、死傷者59名。
西久保3丁目(西窪160) ,平井さんの奥さんと子ども二人が穴倉で生き埋め死亡。玉川上水近くの防空壕に避難することになっていたがこどもが麻疹にかかり熱があったため自宅の穴倉に入った。榎本ハル(大正2隼生)さんの話によると榎本さんの畑には高射機関砲陣地が2箇所あった。兵隊がよく家に来た。すいとんやうどんを食べさせたり、お風呂に入れさせてあげていた。間もなく除隊になり干葉に帰れると楽しみにしていた兵隊さんが爆死した。緑町3丁目(西窪639L現NTTの北側、榎本孝博(13)君が自宅入日付近の防空壕で爆弾が直撃爆死。一人で模型飛行機を造っていた、弟は材料が足りなくなり家に取りに行こうと出た直後だったので助かった。不発爆弾が屋敷の入り口付近にも落ちたが、斜めにあいた穴に草をつめて埋め、そこに貸家を建ってしまったと言っていた。
1月10日未明、午後、夜。11日未明、午後、夜。12日未明、夜。16日午前中。17日午後、夜。19日午後。22日夕食時。23日未明。26日夜と連日連夜小数機が東京上空に現れ空襲警報が鳴り響いた。27日午後2時過ぎB29 62機中島上空に現れたが、強風と雲が多く麹町方面を爆撃。1月28日夜間。29日未明。2月2日夜。14日午後15日午後。2月16日艦載機が上空を旋回していたが、被害はさほど無なかった。
2月17日(5回目)
B29が爆弾、艦載機(123機)が機銃照射、焼夷弾、ロケット弾を工場の窓から打ち込んだ。死者80名、負傷者115名。私の家族はP51艦載機ということで家の中にいた。空襲が激しくなったので自宅の防空壕に逃げ込んだ。防空壕のふたがばたばたと持ち上がり父が押さえていたが、ここにいては危ないと怒鳴り、玉川上水を目指して一目散に逃げた。中島全体
から黒煙が立ち上り、火の粉が当たり一面に降り注いだ。
*2月19日午後2時40分、B29 132機中島上空に現れるが雲に阻まれ葛飾方面へ。
*2月24日夕食時。25日午前7時半、艦上機100機と午後3時B29 130機、大雪。26日午後1時B29
*3月4日午前8時半B29 150機が中島を狙ってくるが天候不良のため都内へ。5日未明。
*3月10日東京大空襲。14日新島。18日浅草。30日深川。31日四谷、牛込。4月1日淀橋、豊島。連日東の空が真っ赤に見えた。
4月2日(6回目)
午前2時半 B29 115機 中島に爆弾と時限爆弾、初めての夜間空襲、照明弾が落とされた。あたりが昼間のように明るく逃げる途中家の影に身を隠すのがやっとだった。西東京市柳沢あさひな精密付近(上保谷27)檀家 高橋ナカ(48)・久男(13)・比留間トミ(42)・正夫(16)健二(13)幸三(11)・重夫(6)・美代子(3)の2家族全滅。 4月4日午前1時から3時間、B29 160機立川飛行場空襲、西の空に空中戦が見えた。
4月7日(7回目)
午前9時50分B29 103機とP51 97機が中島爆撃、死傷者59人。玉川上水まで逃げて行ったらお寺に爆弾が落ちて寺がめちゃくちゃで人が死んだと言われた。延命寺の墓地とすぐ裏に爆弾が落ちた。飯野さんの家(八幡町6)に直撃、ペンキ屋さんと大石さんの家が吹き飛んだ。大石さんはお寺の竹やぶの中に避難したが家が気になり見に行ったということです。お寺の本堂と庫裏の雨戸や障子が壊れ飛び散っていた。大石のおじさんが爆弾の穴のふちで首が半分ちぎれ、あきひらいた目と鼻と口に泥が詰まって万歳の形をして死んでいた。父が泥を目や鼻や口からかきだし助けようとしましたが「ああ一、もうだめだ」言った言葉が浮かびます。爆風で雨戸障子が飛ばされ、がらんどうになった庫裏から本堂の濡れ縁に置かれた大石さんの白い棺が、月明かりに照らされるのが丸見えで怖くて便所にいけませんでした。私のおばあさんの墓にも爆弾が落ち髪の毛や一緒に埋葬されたと思われる水枕が飛び散っていました。50センチ位の墓石が200メートル位離れた寺の大門の脇にあった島さんのトタン屋根と畳と床板を突き抜けて落ちていました。直撃の飯野さんは家財道具一切を失い、ただ一つ嫁に来たとき持ってきた銅のやかんがつぶれず見つかり残ったということです。
4月12日(8回目)
午前9時20分 B29 107機とP51 93機中島壊滅、関前高射砲中隊陸軍中尉長谷部喜之助以下21名、陸軍軍属、矢吹修三以下7名が戦死した。
4月13日、14日、15日都内空襲。4月12日以降は中島飛行機がほとんど壊滅したということで、空襲が来なくなり、多くの人が疎開から武蔵野へ帰ってくるようになりました。
昭和20年4月23日 1呆谷町上保谷新田109(西東京市柳沢)岩崎好雄氏がP51艦載機の機銃照射を受け、銀杏の大木の周りを逃げ回り助かった。後で弾の痕を掘って見つけた。13.9ミリ機関銃の弾を延命寺に持ってきた。
ところが、7月29日大きな爆弾が西武柳沢駅北口あたりの畑に落とされて、農作業中の女性と子供一人が亡くなりました。アメリカの情報公開によって後でわかったのですが、長崎に投下された原子爆弾(通称ファットマン)の模擬爆弾で、プルトニウムは搭載されていませんでした。2.5トンの爆薬が使われており、総重量は4.5トン、形や大きさは同じように作られ、中島飛行機を狙ったものでした。この模擬爆弾は全国50か所に試験的に落とされ、東京駅八重洲口にも落とされたと言われます。
8月8日(9回目)
午後3時45分 B29 60機 足立、板僑、武蔵野を空襲。
関前3-21-13(関前690)の大阪ハツ(67)・慶司(42)・イク(4 0 ) 一二(4 )松江(2)家族5人爆死。おじいさんは防空壕が嫌いだと言って家の中にいて助かった。八幡町一丁目、五日街道沿いの関前八幡神社の隣にあった「しんだな」(関前83)と言う茶店に都内で二回焼け出された、新井さん一家が引越してきました。終戦の一週間前に爆弾が防空壕に直撃して夫婦と子ども三人が爆死しました。
荒井壮一・妻・長男・長女・次男。幸いなことに小さな子ども一人がそばの斜めの柿木に登って遊んでいて高くはね飛ばされ、つぶれた草屋根の上に投げ出されていて、大家の小澤金太郎さんがカンフル注射と人口呼吸をして助けたと話していた。すり鉢状の穴の赤土の上に直接寝かされた親子にかけられたトタンの下から泥まみれの髪の毛と足がはみ出した光景が目に浮かびます。
関前2-1-17(関前822)中村さん隣り武蔵野木工に爆弾直撃、香取一布さん他数名死亡した。同じ場所から平成元年マンション建設の際、不発弾が出てきた。この南側、関前2-1-19(823番地?)仲通り角、大阪新平さん物置小屋近くにも爆弾。
昭和29年、空襲で全壊したと思われていた鉄筋3階建ての西工場が改修され、米軍市宿舎となりグリンパークと呼ばれていました。昭和52年、全てが取り壊され、武蔵野中央公園ができることになり、戦争中の面影が無くなりました。これを機会に空襲の悲惨さや恐ろしさを忘れないため、二度と繰り返すことのないように、碑文と亡くなられた方々の名前を刻んだ平和観音慰霊碑を境内に建てました。
その時、戦争の傷跡である爆弾の破片や機関銃の弾などを集め、展示を行いました。これらの戦争遺品を武蔵野地域戦争の様子を伝える証拠として、平和の大切さと命の尊さを次の世代に語り継いでいきたいと思います。毎年大勢の子供たちが見学に訪れています。
爆弾の墜ちた所
4月7日八幡町1丁目延命寺庫裏のうら250キロ飯野、大石、ベンキ屋全壊、大石さん死亡。墓地内150キロ。日時不明、八幡町1丁目37番地 延命寺有料駐車場、1 t,八幡町1-2-2田中正雄畑内1t2発、高射砲陣地二ケ所が有った。隣の坂本伊助宅裏1t井戸が埋まる。八幡町1-4-32(126番地)竹下宅1 t,隣の千川保育園の工事のとき不発弾(l t )が発見された。八幡町1-4-16(168番地)秋山半三郎さん畑(1t)榎本忠次郎さん宅全壊、壊れた物置に昭和37年まで住む。二の道際には不発爆弾の墜ちたような斜めの穴が開いていた。 八幡町1-3-24(198番地)秋本藤三郎宅さん全壊。 八幡町3-8-8(447番地か)井口良美宅畑1t4発(カンペン野良)千川上水があふれ池のようになった。また第7分団消防詰所(368番地か)緑町1-7-4下田さん屋敷入口、ガソリンスタンド(525番地)五日市街道ふち。緑町1-7-31 (60番地)榎本清松宅杉林、隣りの源正寺が被害をうけ、本堂前の防空壕に入っていた住職家族が生き埋めになったが、掘り出され助かった。同畑1t2発、と高射砲陣地2ケ所があり兵隊一人死亡。緑町1-3-8(758番地)岡田重一宅前、1t不発弾、榎本卯太郎さんらが掘ったが終戦になり止めてしまった。31年頃不発弾処理をした。緑町1-6-2榎本春夫宅畑にも小さな不爆弾の墜ちたような斜めの穴があった。西久保3-2-19(1番地)井野善太郎宅東側、今の都民銀行。西久保2丁目-3-12 (2 6番地?)20年4-5月頃(1L)軍人の海法さん一家全滅。20年1月9日、緑町3丁目榎本卯太郎宅、一家全滅を避けるため離れた所の防空壕に入った。榎本家では屋敷内に二箇所の防空壕を作っていた。入り口の防空壕に兄弟一入で入っていた兄の孝博君(小学六年)が爆死した。弟の圏久さんの話しによると、一人で模型飛行機を作っていたが一部材料がたりなかったので家にとりに出たとたん後ろに爆弾が命中した。更に1tの不発弾が道路と入口近くに落ち斜めの穴が開いていたが草を入れて埋めてしまった。中町1-28-9(3160)20年2-3月頃焼夷弾、平
沼長作家の分家。中町3-9-11( 1664番地) 19隼11月24日、武蔵野町役場庁舎南にあった農業会の製粉工場に爆弾、庁舎の窓ガラスが殆ど吹き飛ぶ。
延命寺に残る戦争遺物
子どもの頃の恐ろしかった空襲体験がいまだに抜けきらず、B29のブーンという昌゛やドカーン、ドカーンと爆弾の逃げ惑う夢を見て、目がさめてああ良かった胸をなで下ろす二とが何度もありました。お墓の中から子どもが、苦しいからふたをあけてくれと言うので、開けてやったら出て行って、夕方になったら帰ってきて、また入りたいと言うのであけてやったら墓に入っていった夢を見たときは身の毛のよだつ思いをしました。榎本光太郎さんが防空壕で生き埋めになった弟の夢を見たといって、お塔婆を建てお墓参りにきたのと関連があるのか不思議に思いました
昭和52隼、戦後33午をむかえ、武蔵野中央公園ができることになり、戦後の面影がいっそうさされたのを機会に、戦争の惨禍を繰り返さないために、平和観畠゛を建立して空襲の悲惨と恐怖をしたため、台座に戦没者英霊と戦災殉難者の名前を刻んで慰霊供養を行いました。その際、戦争の遺物を集めたところ、爆弾の破片や機銃照射の弾など集まりました。武蔵野地域の空襲を風化させないための証言遺物として訴えて行きたいと思います。
「出征兵士のお祝に親戚から贈られたのぼり]一壮行会は親戚、近隣の人々によって行われ、記念写真を撮り、万歳三唱によって出発した。
「お祝に贈られた日の丸」一 篠宮長作さんが支那事変出征の時に贈られた日の丸には武蔵野警防団第七分団一同や多くの親戚近隣の人たちの名前が書かれている。
「遺髪」一昭和18午9月28日の新聞に包まれている髪の毛、榎本清松さんが戦地に行くときに切って残して置いたもので、もし戦死して遺骨が帰らなかったときはこれでお葬式をあげるようにと死を覚悟した悲壮な気持ちが込められている。
「戦地で肌身離さず実につけていたお守り」一 バンドに吊り下げて持ち歩いた。
「戦地からの手紙」 小さな子どもを残して出柾した父親の子を思う気持ちが伝わってくる。
「鉄かぶと」 昭和17年より終戦までどこに行くにも背中にしょって持ち歩いていた。関前3-41-15桜井登理さん67歳が子どもに見せようと保管していた。昭和52年に自分が死んだらどうなるか解からないので持参した。
「防空頭巾」一 子どもたちが持ち歩いたもので、空襲のときはこれをかぶり、目と耳と鼻を指で押さえ、口を大きく開けて体を伏せるように訓練された。境南町の秋本光雄さんが国民学校初等科六年から中学校一隼まで飛騨高山市の隣村の旧家に縁故疎開に行っていたとき使用したものです。斐中・一忠は斐太中学校一年忠組です。B型と血液型も書かれている。
「十七午式防空用防毒面」一 近所の人が持ってきた。
「火はたき」一 5尺ぐらいの竹棒の先にはたきのようにわら縄を束ねて付けたもの。家の軒下の防火用水の脇に立てかけて焼夷弾に備えた。水に浸して火をはたき消すもの。
「250キロ爆弾の破片」一 女子学院の北側道路の下水工事中に赤上の中から見つかった。掘り出したときは火薬が残っており匂がぷんぷんしていたと言うことです。ユンボに引っかかり、破片の先の一部が逆に曲がっている。鉄が錆びてだいぶ薄くなっている。
「一トン爆弾の破片」 一昭和52年緑町18番地の畑で、榎本政治さんが畑を耕しているときに見つけたものです。時々、畑作業中に鍬や鎌にあたり傷つくので嫌われた。朝鮮戦争が勃発してかねへん景気が来たときにはキロ30円ぐらいで屑屋に売れた。子どもたちは拾って歩きアイスキャンデーを買ってたべたのでほとんどなくなった。小さなものは延命寺の庭から出てきたもの。緑町二丁目8(元中島飛行機東工場跡)都営住宅改築工事により出てきた爆弾の破片多数
「鉄砲の弾と鉛の玉」一 中村寛平さんが所有の高射砲陣地跡の武蔵野市関前三丁目の畑で発見したものです。陸軍中尉長谷部喜之助以下七名、陸軍軍属矢吹修三以下二十一名が戦死したところです。
「敵弾の貫通した財布と印鑑」一 北支派遣第5342部隊山岡隊 昭和19年5月13日京漢作戦の七里河付近戦闘に於いて敵弾胸部に命中戦死したときの遣留品。
「隣組回覧文書」一武蔵野町役場隣組回覧、西窪第一町内会回覧、配給・お知らせ、昭和20,21年
平川幸三氏(武蔵野市緑町3-4-13)家の柱につきささっていた機銃掃射の弾。