「建築家とロータリアン」(2023/2/16)
川村 雅憲会員
□建築との出会い
私と建築との出会いは10歳ごろと記憶している。父が運転するバイクにまたがり父が内務省時代の友人と起こした月島の勝どき橋近くにある材木屋に連れていかれた。そこで大きな丸太が貯木場で数多く浮かんでいたのを覚えている。武蔵野市の中町で父が始めた武家の商法の材木商もこのころであった。家の裏には大工の仕事場があり、ノミ、カンナ、ノコギリの大工道具
を駆使し柱・梁にほぞや溝を大工は巧みに掘っていた。このように私の幼少期は杉・檜の木の香りで育ったといってよい。当時の住宅の造りは在来木造軸組建築工法であった。そこには大工職人と砥石や目立てを使った再生可能道具、そして日本の風土で育った木材の性質(芯持ち・木表木裏による反り等々)を熟知した生産技術があった。経済の成長と都市への人口集中と共に多くの住宅が必要となった。1本の柱は5~60年を必要としているが、北米栂材等は7~80センチの丸太から何本もの柱ができる。しかし耐久性のある国内産芯持ち材と外材とは性能に大きな違いがある。木材と住宅を工場で作るプレハブリケーションシステム(2×4工法)の普及により、大工技術を主軸とする在来木造建築をはじめ、材木商や大工・道具等の衰退が始まった。現在では住宅木材を扱うのは大手商社であり、町場にあった木材市場と材木屋は姿を消した。我が国の森林面積は国土面積の3分2もあり建築資材用の人工林は国土面積の6分1でその6割が利用されていない。すでに指摘されていた林業問題とここから発生する自然災害問題が起こっている。森林は適度に間引くことで地面に太陽の光が入りしっかりと根が張り自然災害を防ぎ、良質な建築木材資源となる。今日 国は学校など公共建築に地域木材利用を推奨し、間伐材も含め集成材技術による体育館等の大空間建築や耐火建築としての純粋木造高層ビル等の木造新技術建築認可を進めた。しかし林業従事者は減少の一途にあると言わざるを得ない。私は幼少時代から大学まで家業の手伝いを当然のこととして過ごし、建築への必然的興味を持つに至った。これが私にとって最初の家業による職業奉仕かもしれない。
□福祉建築との出会い
日常的に木とのふれあいから建築に進むこととしたが、本格的な建築研究は大学院時代であった。住環境デザインに基づく寸法体系モジュール、素材・空間システムを研究する研究室であったが、住環境や宇宙航空関連施設等の設計も研究の一環として行っていた。1981年国連は国際障害者年を宣言した。しかし40年前のわが国ではハンディキャップ(H・C)者が自由に外出も出来ない環境があった。九州別府にある障害者就労支援企業から研究室に重度H・C者が自立し生活できる実験住宅の設計依頼があった。重度H・C者は常に介護を必要とする。電動車いす、自動ドア、リモコンTV、ウォシュレット等当時の住宅では一般化されていない自動設備機器を大手メーカーの協力を得て実験住宅でのH・C者の生活が行われた。そこでの多くの失敗から今日普及されている住環境設備機器が重度H・C者の実験生活からもたらされたものも多かった。イギリスの福祉研究者が「障害者に使いよいものは健常者にも使いよい」と謳っている。これはユニバーサルデザインの理念といえる。国際障害者年を期にわが国はバリアフリーの基準作りを指示し、これを受け建築学会のH・C小委員会を立ち上げ私も基準作りに参画した。40年経った今日ではバリアフリー法により交通施設でのエスカレーター、ELV等々種々の空間と設備が自然な形で一般的に利用されている。 ちなみに私の設計事務所名称DSDとはDesign System for the Disabled(障害者の生活環境を考える)の頭文字であり、1985年 当時の通産省より新住宅開発プロジェクト「高齢者・身体障害者ケアシステム技術の開発」を委託されバリアフリー住宅開発として今日の住宅メーカーのバリアフリーモデル化としての指針となった。この様に福祉建築の研究を通し誰もが利用しやすい住環境や公共施設への専門家としての職業奉仕を行ってきたと言ってもよいかもしれない。
□地域に根差した建築家として
福祉建築への研究が海外の資料を基に進められてきたことには変わりなかった。現実のH・C者の生活や住環境を十分に理解してきたか、そしてその実態を国のルール作りに反映してきたかの反省があった。市内の障害者団体とのつながりから知り合った年老いた母親と重度肢体不自由者の娘との生活、2人の子供を育て上げた全盲の母親の生活等々身体に障害を持つ多くの方々の生活と住環境にめぐり合った。市内に住む重度のH・Cの娘を持つ母親から‘自分が亡くなった後の娘のことが心配だ‘ との相談があり多くの障害の子供を持つ親の共通の考えがあった。1978年 市内で活動していた主婦を中心としたボランティアグループ、市内の大学のボランティアサークル等々多くの人々の協力を得て「親亡き後の重度H・C者共同生活寮を作る会」が発足した。そして市内に住む重度肢体障害者7~8人が通うアパートを武蔵境で借り不自由な身体機能でも素晴らしい革細工作品を作る通所作業所を立ち上げた。親亡き後の共同寮を作るためボランティアの人々と母の日に吉祥寺ロンロン(現在のアトレ)入り口で行った「花束売り」、学生ボランティアを中心に古紙等を市内全域で集めた廃品回収事業、そしてこの運動をより多くの方々に知ってもらうため武蔵野市民文化会館に2000名を集めたコンサートが開催された。20年間にわたる運動の結果3000万円を集め社会福祉法人武蔵野の運営により初めての重度H・C者グループホームが2006年八幡町に完成した。この間完成を待たず何人かのH・C者の仲間が亡くなったのは残念だった。地域に根差した建築家として車いす生活者、視力障害者、高齢者等が街に出ることがいかに大変か、40年以上前の都市環境はH・C者に
とっては不向きであった。車いすや視力障害にとって住みよい街づくりは健康な人々にとっても住みよいという考えに基づき、車いすと視力障害の方々と主婦・学生ボランティアと武蔵境駅から吉祥寺の商店街、道路・歩道を歩き車いすのまちづくり
点検を行った。ロンロンからパルコへの出入口通路を造りたいとの申し出があり、現在あるスロープ付き階段通路を提案し実現したのもこのころであった。1981年 八幡町に武蔵野市障害者福祉センターの設計・監理。1991年武蔵野市立第四中学校に併設した重度重複障害児者施設の設計・監理。1996年 武蔵野市吉祥寺南町特別養護老人ホームゆとりえの設計・監理 等、建築家として地域に根差した建築をめざし住みよい住環境・まちづくりを微力ながら進め、今日まで築いた専門的知見を地域社会に職業奉仕として献してきたと考えている。
□建築家と職業奉仕
H・C者との出会いを通して人間・道具・空間との関係をより普遍的な形で具現化することができた。人間の日常動作や行為に障害を持つと人間は残された機能を活用するか又はそれに代わる道具を利用する。H・C者に使いよいものは普通の人々にも使いよいという理念はユニバーサルデザインの発想を
生んだ。折れ曲がりストロー、マジックテープ、シャンプー袖の突起等々数多くのデザインが我々の日常生活に流れ込んでいる。教育についても同様である。H・C者が通う養護学校の教師は子供が十分にしゃべれなくても時間をかけ待っていてくれる。早く手を挙げ答えを言う生徒がよい子ではない。人間が持つ個々の能力に見合った教育が必要でありH・C者から私はソフト・ハードの両面から多くのことを学んだ。建築を作ることはその場限りとはならない。その空間で人が生活し育ってゆく。道具や空間に不備や不都合は必然的に生まれてくるし建築家はこのような事柄に正面から向かい合い高い倫理性をもって対処しなければいけないと考えている。ロータリーの創始者ポール・ハリスは「社会に役立つ人間になる方法はいろいろあるが、最も身近で効果的な方法は間違いなく自分の職業の中にある」と謳っている。私はロータリーの理念と実践を全うすることはできないが、一人のロータリアンとして高い職業倫理に照らした職業奉仕に勤め「四つのテスト」と共に、これからもこのポール・ハリス
の言葉を大切にしたいと思っている。